燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや
例えば昨日悲しかったとして、それが尾をひく場合とそうでない場合がある。
では幸せな気持ちは尾をひくのだろうか。いや尾をひくというと正確ではない。
幸せは街灯のようなものでポツンポツンと記憶の中におぼろげに光っていて、近づいたときにその光の暖かさや照らされた周りの風景を思い出す。近づかなければ輪郭さえ定かではない。
悲しみはどうか。
悲しみは水はけの悪いグラウンドだ。晴れが続けば砂埃さえ立てるほど乾燥する。でも雨が降ったらしばらくはぬかるんだままだ。0を晴れ、1を雨とするならば、悲しみに0.5はない。悲しみは常に0か1のどちらかだ。
思考のすべてが支配され、息をするのも苦しいほどに胸が締め付けられる。考えまい、考えまいとすればするほどに頭の中はそのことでいっぱいになる。泣くか。正体を失うほどに酔うか。とにかく心身ともに手放し運転にしない限りずっとそこにあるのが、悲しみだ。
泣き顔とも笑い顔とも取れるような、ちょっとしかめた顔で「あの時こうしていれば……」なんて思い返せるならもうそれは悲しみではなく幸せだ。思い出に浸り、選ばなかった選択肢を生きる自分を夢想する。そんなやつは存在しないのだから物語はもちろんフィクションで、フィクションは書き手が望んだ最後を迎える。なら過去のVHSを引っ張り出してくるその行為は、映画を観るのと同じくらい娯楽的で、砂漠を耕すのと同じくらい非生産的だ。
非生産的な行動は自らをゴミ製造マシンにしてしまうから、できる限りやめよう。とは思うのだが、非生産的な行為は他の人との共通の趣味になりにくいからどうしても無意味なのに意味のある行為に思えてしまい、やめられないのが実情である。何回も全クリしちゃうゲームってあるだろ?
話を元に戻すと、悲しみはずーっと尾をひく感情だけど幸せは忘れちゃいがちだよねって話。
でもいつまでも悲しんでらんないし、身近な幸せを忘れがちな日々は一番大切なこと見落としがちになるからどうしたらいいんだろうね。
って考えてたらアーティストっていわれる人たちはそれを他の人が体験しても感動できるぐらい直に表現できる人たちなんだなと。だから人の人生変えるくらいの力があって色褪せないんだなと。
逆にそうやって表現しないと破裂しちゃうってのもあるのかもと思った。勅使河原三郎が「すいません、身体で表現ばっかりしていると言葉が思考に追いつかなくなるもので」って言ってたみたいに、それぞれが持つ言語で自分の心のゆらめきを留めておかないと心と体が離れていってしまうのかもな。