終わったやつが始めたブログ

大学卒業に9年かかった男の考えていること

燕雀いずくんぞ鴻鵠の志を知らんや

例えば昨日悲しかったとして、それが尾をひく場合とそうでない場合がある。

では幸せな気持ちは尾をひくのだろうか。いや尾をひくというと正確ではない。

 

幸せは街灯のようなものでポツンポツンと記憶の中におぼろげに光っていて、近づいたときにその光の暖かさや照らされた周りの風景を思い出す。近づかなければ輪郭さえ定かではない。


悲しみはどうか。

悲しみは水はけの悪いグラウンドだ。晴れが続けば砂埃さえ立てるほど乾燥する。でも雨が降ったらしばらくはぬかるんだままだ。0を晴れ、1を雨とするならば、悲しみに0.5はない。悲しみは常に0か1のどちらかだ。

思考のすべてが支配され、息をするのも苦しいほどに胸が締め付けられる。考えまい、考えまいとすればするほどに頭の中はそのことでいっぱいになる。泣くか。正体を失うほどに酔うか。とにかく心身ともに手放し運転にしない限りずっとそこにあるのが、悲しみだ。

 

泣き顔とも笑い顔とも取れるような、ちょっとしかめた顔で「あの時こうしていれば……」なんて思い返せるならもうそれは悲しみではなく幸せだ。思い出に浸り、選ばなかった選択肢を生きる自分を夢想する。そんなやつは存在しないのだから物語はもちろんフィクションで、フィクションは書き手が望んだ最後を迎える。なら過去のVHSを引っ張り出してくるその行為は、映画を観るのと同じくらい娯楽的で、砂漠を耕すのと同じくらい非生産的だ。

非生産的な行動は自らをゴミ製造マシンにしてしまうから、できる限りやめよう。とは思うのだが、非生産的な行為は他の人との共通の趣味になりにくいからどうしても無意味なのに意味のある行為に思えてしまい、やめられないのが実情である。何回も全クリしちゃうゲームってあるだろ?

 

話を元に戻すと、悲しみはずーっと尾をひく感情だけど幸せは忘れちゃいがちだよねって話。

 

でもいつまでも悲しんでらんないし、身近な幸せを忘れがちな日々は一番大切なこと見落としがちになるからどうしたらいいんだろうね。

って考えてたらアーティストっていわれる人たちはそれを他の人が体験しても感動できるぐらい直に表現できる人たちなんだなと。だから人の人生変えるくらいの力があって色褪せないんだなと。

逆にそうやって表現しないと破裂しちゃうってのもあるのかもと思った。勅使河原三郎が「すいません、身体で表現ばっかりしていると言葉が思考に追いつかなくなるもので」って言ってたみたいに、それぞれが持つ言語で自分の心のゆらめきを留めておかないと心と体が離れていってしまうのかもな。

ペースは季節や忙しさによって変わりますが、未だに君の夢を見ます。

 

君の夢を見ている間は幸せです。内容がどんなものだったとしても、やはり会えるだけで幸せです。

 

目が覚めるとどんな夢だったかを忘れてしまうことが多いけれど、それでも君の夢を見たことは覚えていて、とても辛くなります。

 

去年の年末に連絡をもらい、今年の正月に君に会ってからもう一年が経ちます。

 

今年はどんな一年になりましたか?僕は何かしたといえばしたし、それが普段と変わらない一年だったといえばそうかもしれない。

君の活躍を見ているとうれしい反面さみしくもなります。君の幸せを見ることが僕の幸せと思っていたけれど、僕の幸せはやっぱり君を幸せにすることだったみたいです。他の誰かと幸せそうでも祝えるか。いや祝えない。

 

思い出の分だけ後悔も深い。脳内のデータファイルを書き換えたい。

29歳になったのでブログ開設してみました

27歳といえば、カート・コバーンジミ・ヘンドリクスジャニス・ジョプリンエイミー・ワインハウスなど、著名なミュージシャンが亡くなった年齢です。都市伝説的にいえば、悪魔の契約とかいわれているやつです。

 

じゃあ29歳はというと、フジファブリック志村正彦が亡くなった年齢です。
志村が亡くなった2009年は在籍中の大学を休学し、縁あった都内の編集プロダクションで朝から晩まで働いていた年でした。

 

この年は5月に忌野清志郎が、6月にマイケル・ジャクソンが、7月にアベフトシが亡くなったという年で、僕にとってのロックスターが一気にこの世を去った年でもあります。

 

中でもアベと志村の訃報のショックは凄まじいものがあり、仕事中に「ううっ」と涙をこぼした記憶があります。

少年が仮面ライダーやスポーツ選手に憧れるように、僕にもロックスターに憧れた時期がありました。それはバンドをかじったことのある男性なら誰しもが通る道で、多くの場合は自分にはそうなれる素質がないと諦めて自然とプレイヤーを辞めていきます。御多分に洩れず僕も大学入学を機にバンドをやめました。

それでも音楽を聴くことはずっと好きで、日々ダラダラヘラヘラ過ごしながらも「俺はこんなもんじゃない」とか「本当に欲しかったものはこれなのか?」とか自問自答して苦しんでいるときに、それらを吹っ飛ばしてくれるカッコイイ音楽を探して、見つけて、何度も聴いて、なんとか前に進もうとしていたような気がします。

 

しかし、楽な方に楽な方に流れていった僕はいつしか前に進むのをやめ、休学を含めて5年も余分に大学に通うことになります。他の人より5年も多く大学生として過ごす間に多くの友達を失い、恋人に別れを告げられ、全般性不安障害というギャグみたいな名前のうつ病を患い、身も心もボロボロになった状態で都落ちをし、かろうじて卒業した後も実家でうだつの上がらない日々を送っています。

 

ではなぜそんなやつが今さらブログを始めたかというと、それは自分を救うためです。昨今のSNSは本当に思っていることを書けない空間になってしまいました。人は関係値をもとに相手の発言を受け取りますが、簡単に繋がれるSNSの場ではその関係値があいまいな場合が多く、思いもよらないところから批判を受けたりします。しかもそれはコメント欄にはあらわれない場合があります。

 

僕のように周りの目を気にする人間にとっては、自分が思ったことをSNSで公開するのはかなり勇気のいることで、とてもシラフじゃやってられません。意図したことに的外れなコメントを残され、そんなアホと友達だと思われるのもやってられません。

 

だったら初めから書かなければいいという話になるところですが、エゴの塊の僕には受け入れられる意見ではありません。頭の整理のために思ったことはどこかに書き残したいですし、誰かに共感してもらって自分を認めてもらった気になりたいのです。実際にはそうでなかったとしても。

 

このブログが自分にとって今後どんな存在になっていくかはわかりませんが、急に死んじゃったとしてもどこかの誰かが読んでくれるならば、それは僕が存在した証明になるのではないでしょうか。

 

ロックスターになれず、誰かの気持ちを動かす音楽を作れなかった僕にとっては、このブログがそんな存在になるような気がします。