終わったやつが始めたブログ

大学卒業に9年かかった男の考えていること

全く

前回の日記、暗い。

 

でも今日もこうして書いているのも、暗い気持ちを吐き出すためなのだからこういう性質なんだろうと思う。

 

盆明けからひと月、本当になにもできなくてひと月。

 

そこからなにもしたくなくてダラダラしてひと月。

 

すごいよ。なにもしないと時間は早く過ぎるし、記憶もなにも残らない。

 

忙し過ぎると時間の流れというかその辛い時間はジリジリろうそくが燃えていくみたいに過ぎていくけど、記憶ははっきり残っているし、その残った記憶が生きた証みたいに思えるのかもしれない。今はあんまり生きている感じがしない。

 

生きている感じってなんだろう。

 

必要とされる自己肯定感だろうか。できることが増えていく感覚だろうか。

 

はぁ、ほんと生きてるってなんだろう。

かっちゃんへ

 

かっちゃん。僕の大好きだった叔父さん。僕が22のとき、大学を休学して雑誌の編プロで働いていたある日の朝、撮影に向かう直前に親父からの電話で亡くなったことを知らされたかっちゃん。僕は電話口で「なんで」「なんで」「どうして助けてあげられなかったんだ」と言葉にできないぐしゃぐしゃな気持ちの中で、それしか言えなかった。

 

親父は「お前は葬式には来なくていい」と言った。多分親父はどうにかなってしまいそうで、そんな姿を僕に見せたくなかったのだと今は思う。そういう不器用な優しさのある人だから。

 

かっちゃん。おばあちゃんはよく僕に言っていたよ。「こうちゃんとかっちゃんの兄弟は、あんたたち兄弟とそっくりや」僕はうれしかった。ベタベタするでもなく、突き放すわけでもない、男っぽい優しさがあって、ユーモアがあって、少年のような心があって、でもすごく不器用で、周りに理解してもらえない苦しみを抱えていたであろうかっちゃんが大好きだったから。

 

なのに毎日をただ無為に過ごして、いつの間にか同級生が卒業することにもうすでに二年間の留年が確定していた僕は、そんなかっちゃんに会いにいこうともしませんでした。会いたいと思ったときにはもう遅いっていうけど本当ですね。今誰にも見られることのないブログにこんなことを書いても意味がないことはわかっています。

 

おばあちゃんたちがことあるごとに親父とかっちゃんを比べて「あの子はあかん」「こうちゃんを見てみい」と話しているのを聞いて、泣きながら怒ったことがあります。

なぜなら僕も同じことを言われているような気がしたから。年の離れた優秀な兄がいて、どうしても比べられてしまう。同じことをして勝負しようと思っても勝てない。いつもよりいい点数が取れたり、褒められたりしても「お兄ちゃんは普段からずっとそうよ」と言われるたびに、いたたまれない気持ちになり続けてきた僕は、かっちゃんもきっとそうだと思って、かっちゃんが非難されたからというよりは、自分がまた否定されたような気持ちになって、辛くて泣いて怒ったんだと思う。

 

かっちゃんが亡くなったときは、まだ僕は鬱になってなくて、それでも生きていこうと思ったし、かっちゃんの分まで生きていこうと思ってました。

でも、器用でやってみれば大概のことはできてしまって、それで怠け癖がついて、でも自分がかつて周囲から受けた賞賛と自信が忘れられなくて、そんな自分が今まで簡単にできていたことができなくなって、それって地獄だよね。

思い描いていた、心から求めていた、自分を心から信頼して愛してくれる人がどんどん離れていって、身近な人はそんな自分を直視してくれなくなって、僕の場合は自分が周りを大切にできていなかったから、因果応報なんだけど、そう思えば思うほど、自分に生きてる価値がないと思ってしまいました。もしかしたらかっちゃんもそうだったのかな。

「あなたが死にたい今日は誰かがどうしても生きたかった1日だ」みたいな言葉があるけど、そんなの関係ないよね。僕から言わせれば「あなたが楽しく過ごした今日は、僕がどうしても死にたかった1日だ」だよ。かっちゃんはどう思う?

 

それでも僕がなんとか生きなければと思うのは、かっちゃんとしんごおじちゃんがいたからです。しんごおじちゃんについてはまた書くけど。あのときの親父と母さんを見たら、自殺なんてできないよ。人に生かされてるっていうけど、こういう意味の生かされてるもあるよね。僕はそんな家族が近くにいるだけ幸せで、恵まれてるのでしょう。

男一人で生きていって、誰にも言えないことがあって、それを抱えたまま、耐えきれずに死を選ぶ。想像しただけで辛くて苦しくて涙が出ます。二人の苦しみとは違う苦しみなのかもしれないけれど、少しだけ分かる気がします。

 

僕はもう生きているのが辛いです。普通の人が普通にできることができない。愛する人を大切にできない。大切にしたいはずなのに傷つけてしまう。人に愛してほしくて認めてほしくてしょうがないのに。自分を愛せないから、自分を傷つけ続けているから、きっと僕はそうなのでしょう。そしてそれは「お前は人を愛して愛されて幸せになる資格なんてない」ってどこかの誰かに言われている気持ちになります。

 

僕の体を使って生きられるようになる人がいるのなら、どうぞなんでも持っていってください。そしてあなたの体の中で少しでいいので幸せを感じさせてください。

 

僕はもう、僕のままで生きていくのが、辛すぎて耐えられないかもしれないので、どうかその前に、僕の心臓を、骨髄を、使えるものは全て持っていってください。

 

今はそんな気持ちでいます。

ハッピーホーム

今素敵な夫婦の新居のリビングにいる。

二人は寝室で寝ている。


僕の隣には後輩の女の子が寝ている。

あと2時間もすれば起きて一緒に駅まで行き、そこで別れるだろう。


それにしても今日は楽しかった。

大雨が降ったせいで開始は1時間ほど遅れたが、笑いと慈しみの絶えない優しい時間が過ぎていった。


酔いが醒めてくると気分は祭りの後だ。

明るい日曜日の早朝、鈴虫の声、人の寝息。どうにも眠れない。さみしいさみしいと羽をこすって鳴いてみたい。

誰か慰めてくれるだろうか。


もう何年も前から生きているというより生かしてもらっているという感覚が拭えない。自分が何を楽しいと思い、何のために生きていくのか、分からない。素敵な未来を想像する?想像の中の未来はもうとっくに来ていて、なんなら過去になっているのに?


遅いも早いもなく、誰かが何かをしてくれるわけではない。やるのは自分だけだ。


でもなんのために?


僕には現在以外何もない。

働く女性

働く女性が好きだ。どこかに勤めなくても、大人になれば日々の暮らしの中で働くようになる。洗濯物を干す。食事を作る。掃除をする。庭木の手入れをする。家事だ。

 

俺は笑顔で働く女性が特に好きだが、悲しそうな顔をして仕事をする女性も嫌いではない。

 

男は不器用だ。かっこつけようとしてかっこ悪くなったりする。辛くても腹が立っても「これは仕事だ。気持ちを顔に出してはいけない」と自分を抑えて、後になって酔いに任せて愚痴をこぼしたりする。一貫性がない。不器用だから。

働く女を直情型と仮面型の二種類に分けてみるようにしている。
どちらにも長所と短所がある。

直情型の長所は、人として魅力的な場合が多く、仕事の成果をあげていればキャラクターも相まって周囲から信頼される上司になりうるところ。

短所は、仕事ができないタイプの人だった場合、自らの感情や自己評価のためだけに動くタイプのためチームの士気を損ねるところ。

仮面型の長所は、協調性が高く、自己防衛的な意味もあって周囲をむやみに傷つけないため、チームのまとまりがよくなるところ。

短所は、自らの感情を表に出さない分ストレスが溜まりがちになり、仕事に対する強いモチベーションを持ちにくくなるところ。

悲しそうな顔をして仕事をしていても目がいってしまうのは、仮面型のほう。

表情に出さないようにしているその人の素の感情が少しだけ溢れた瞬間を感じられるのは仮面型だから。

働く女性が好きだ。真剣な顔でパソコンに向かう女性が好きだ。洗濯物が真っ白でうれしそうな女性が好きだ。笑ったり怒ったりしながら働く女性も好きだし、いつも優しい笑顔で働いてるのに今日はなんだか下を向いている女性も好きだ。

彼女たちには居場所がある。働くことで信用を評価を自分にしかない価値を手に入れ、人に必要とされている彼女たちの場所がある。

 

決して誇らず、けれどもそれは体のどこかに凛々しさとして人の目に映る美しさがある。

 

働く女性は美しい。